１
すべての文学は歴史的な流れにおいて出現するのであって、それまでの文学
と無縁であるということは決してあり得ないのは自明のことである。また、あ
る時代の読者はある文学を読み、そのジャンルを見定め、そのジャンルが積み
上げてきた伝統を了解しつつ、あるいはそれにとらわれるかたちで読み進めざ
るを得ないのだ。
ここでは明治二十三年、『縁外縁』として発表され、現在『風流仏』と並び
幸田露伴の名声を高めた作品として知られる『対髑髏』という作品を取り上げ
たい。『対髑髏』というテクストがいかなる文学的伝統を内包しているのか、
それらのジャンルは読むことにおいてどのように機能しているのか。また文学
的伝統というものが、このテクストでどのように揺り動かされ、組み替えられ
ていったのかということを見ていきたいと思う。
２
『対髑髏』を論じる際に少々やっかいなのは、『対髑髏』が幸田露伴によって何回か改稿されていることである。この問題については二瓶愛蔵氏の研究がもっとも緻密で詳であるのだが、テクストの選択と言うこともあるので、ここでも簡単に整理しておかなければならない。
現在『対髑髏』を読む場合に一番手に入りやすい、資料としては、おそらく『露伴全集』かもしくはそれをもとにした『明治文学全集 幸田露伴』であるのだが、残念なことに『露伴全集』における『対髑髏』は幸田露伴の生前には存在すらしないといってよいテクストになっている。というのはこれから述べる三種のテクストのパッチワークになってしまっているからだ。
『対髑髏』は厳密に言えば三回の改稿がされている。初出は「日本之文華」（博文館）の創刊号（明治二十三年一月）～第三号（明治二十三年二月）に『縁外縁』として三回に分けて掲載された。そして明治二十三年六月に『葉末集』に所収される形で『対髑髏』として発表されている。この際には題名の変更という大きな改稿はあるものの本文の改稿はほんの僅かであり、物語内容にはほとんど変化をきたさないので同一視してもよい。
次に明治三十五年『露伴叢書』に『縁外縁』として収められる際に、癩女の描写、あとがきの大幅な変更などかなり大幅な変更がなされているのが二回目の改稿である。さらに大正五年、名家傑作集第五編『白露紅露』に『対髑髏』として収められる際にも、かなりの修正が加えられている。
いってみれば、『対髑髏』には葉末集版と『露伴叢書』版と『白露紅露』版の三種があることになる。そしてこれらの違いは無視して論ずることができないほど大きなものなのである。
作家としての幸田露伴を論ずるためにはこれら三種を厳密に比較検討しながら論じるのが有効だと思われるが、ここでは文芸の流れの中で立ち現れる『対髑髏』はいかなるテクストかということを論じるのが目的である。よって本稿では初版である葉末集版の『対髑髏』をテクストとしたい。
３
さて、『対髑髏』は柳田泉氏がこれを評価して
『風流仏』よりも短いものであるが、神韻と霊気とは、『風流仏』以上といひ得る。全編まつたく神韻縹渺たる抒情詩である。抒情的戯曲といつても可い、簡素ながら、古い能曲をさながらの漸層的結構を失はない。
と指摘しているのをはじめとして、登尾豊氏が
「対髑髏」の構成は複式夢幻能のそれを下敷にしているように思われる。お妙を一応シテ、〈我 〉を一応ワキ、お妙の姿の消滅を中入、小川村の温泉宿の亭主の話に登場する癩の女を後シテと考えれば、細部にはかなりの変形がほどこされているが、基本的には夢幻能の展開の型を踏んでいると見てよい。
と述べているように、従来から謡曲、夢幻能との深い関連性が指摘されている。まずこれらの指摘を受けて『対髑髏』の構造を詳しく見ていくこととする。
夢幻能の特徴的形式は小田幸子氏の整理によれば次のようなものである。
①超現実的存在の主人公（シテ。神，男女の霊，鬼畜の霊，物の精など）が，名所を訪れた旅人（ワキ。僧侶や勅使など）に，その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てをもつ。
②前後二場に分かれ，同一人物が前場（まえば）は現実の人間の姿（化身）で，後場（のちば）はありし日の姿や霊の姿（本体）で登場する。
③脚本は，ワキ登場─シテ登場─ワキ・シテ応対─シテの物語─シテの中入の五段構成を前場にとり，後場もこれに準じる。構成の頂点は，前場のシテの物語と後場のシテの仕事（過去の仕方話的再現や舞事（まいごと））である。
④シテの演技が中心になるように作られている（主役独演主義，シテ中心主義と称する）。つまり，ワキはシテの対立者ではなく，シテの演技を引き出すのがおもな役割である。
これらの特徴を一見すれば明らかなように『対髑髏』は夢幻能の形式に沿って構成されていると言える。
まず、①にあるような特徴として『対髑髏』が「都市」や「町」の物語ではなく〈中禅寺の奥、白根が嶽の下、 湯の湖のほとり〉に旅する物語であるということは重要なメルクマールであるといってよい。作中人物である〈露伴〉は〈都会〉育ちと自ら語っているように、東京の人間であるが、東京という舞台はいかにもこうした夢幻能的世界には似合わないものであるといえるだろう。
夢幻能の機能において重要な機能の一つに遠見というものがある。これは物語の舞台を謡い上げ、観客に遠景の広がりを示し、シテの登場を準備するという機能である。お妙というのは超現実的存在として捉えうるわけでそうした人物の登場を準備する、あるいはそうした超現実的存在として人物を演出するために、『対髑髏』にもそれなりの舞台装置があるはずなのである。
それがすなわち〈忽ち平癒するや否、丈夫素より存す衝天の気などといきり出し〉〈御亭主〉の忠告に逆らって金精峠へと進もうとする場面であり、その道中の場面なのである。
樅の木柘の木タモの木ドロの木唐松など生ひ茂りて蔭暗く、此山の本名木叢峠の名は體をあらはして森々と物凄く、梢を渡る風に露はらはらと襟首に落ち、顔を撲つ室翠は気息に伴って胸悪し。雪に印せる兎鹿の足痕漸く減りて、耳に音信し鳥の聲も次第々々に絶え、身は撃ち登るの苦しさに汗ばみながら、心を掩ひし五慾の塵衣は一枚々々剥るゝ如く、昨日の栄華縦横無尽に神通を逞しくせし第六識魔王は眷属味方を失ひて薄ら淋しく、（一）
こういった、妖しい森林の描写や自分のことを〈第六識魔王〉と通常では使われないような言葉を散りばめたりする語りが、漸進的に物語を現実から非現実へと渡していく機能を担い、それが戦略としてお妙の登場につながっていくとすれば、まさにこれは夢幻能における遠見的機能を果たしているといってよいだろう。
また、構成として、前後二場に分かれていることも夢幻能形式に負っていると言える。すなわち〈露伴〉が妙と出会い会話していく場面を第一場と考え、妙が過去の恋の顛末を語っていくのが第二場と考えればよい。そうした場合前者の妙が前シテで後者の妙が後シテであるということになろうか。登尾氏はお妙が前シテで癩の女または髑髏が後シテとしており私もこうした考えを否定するものではないが、やはり能曲が一種語りの文学である以上、妄執を「語る」という意味において三で物語る妙が後シテとするのが自然であろうと思う。
加えて、具体的にこうした夢幻能を指し示す言葉として現れてくるのが、オープニングでの自己紹介で使われる〈江口の君の宿假さず〉というもので、ここで読み手は謡曲「江口」を思い起こすことになるのである。
物語内容との関係で考えれば、これは夢幻能の「卒塔婆小町」との関連も非常に深いように考えられる。極簡単に梗概を述べれば津の国阿倍野の山中を訪れた高野僧が乞食の老女と出会うのだがこれは実は小野小町であった。そして小町には深草の少将の亡霊が付いていて、彼女は半狂乱になるが、最後に狂乱状態を脱した小町は仏道を念じ、悟りの道にはいることを期するというもの。これは何度も何度も求愛されながらも、それを拒み続け、焦がれ死にさせる若殿を深草の少将にスライドして考えれば見事に『対髑髏』とリンクしている。
ここで明らかなように、夢幻能形式だけでなく、物語の話形においてもかなり、『対髑髏』と『卒塔婆小町』は対応する関係にあるのだ。言い換えれば『対髑髏』の下に『卒塔婆小町』の記憶が眠っているのだとさえ言えるだろう。そしてこのことが読むことにおいてどのように作用しているかは後節にて論じたい。
４
ここまでで論じてきたように『対髑髏』は伝統文学である夢幻能や古典が下敷きとなっている。ただ『対髑髏』は書き言葉による読み物である。舞台芸術である夢幻能を骨格としているというだけでは読み物として成立しないし、今日まで高い評価を得ることはできまい。
本節では物語を読ませる力、つまり書き言葉として読者を引きつけるために、どのような語りの方法がとられているかということに焦点を当てる。
オープニングにおいて明らかであるように、〈我元来洒落といふ事を知らず、数寄と唱ふる者にもあらで〉と基本的に語りの人称は一人称であり、語り手は〈露伴〉である。また〈明治二十二年四月の頃は〉とあるように作品の時間の外から、回想という形式をとって語るのである。ただ、問題は形式的には回想だが、読み手にはすべてを知っている語り手という印象は全く与えないことなのだ。そこで、『対髑髏』の語りの構造を分析する。
一ではオープニングを除外して考えれば、かなり会話体が多用されている。具体的には宿の亭主との会話である。
「御亭主是から先へ行く道は無いか」と問へば。
「どうも此処は行留りの山の中、見らるヽ通り前は前白根奥白根雲の上に頭を出して居る始末、（中略）お戻りあって足尾とか庚申山でも見物致されよ」との言葉。（おのれ我を都会育ちの柔弱ものと侮ったりや、その儀ならば旋毛曲りの根性天の邪鬼の意気地見せつけて呉れん。）と詰まらぬ事に偽勢張り、股引もなき細臑踏みはだけて。
「其峠何程の事あらん。焼飯作れ草鞋買うて来よ、少しばかり難儀でも同じ道を帰るより面白からう、鼻歌を山の神に聞せて越えん。」
「さてく途方もないこと～（一）
意図的に会話文の発話部分に鉤括弧を施し改行してみる。すると引用した場面などをはじめとして一、二において『対髑髏』が会話体を中心とした語り口になっていることがよく分かる。つまり、引用のように登場人物の肉声がそのまま写し取られるような語り口が多用されているのである。またそれだけではなく、引用において丸括弧で括ったような登場人物〈露伴〉の心中語、すなわち〈詰まらぬ事に偽勢〉といったような語る時点での語り手〈露伴〉の認識ではなく、事件が起きている時点での〈露伴〉の感慨なり感想なりがその時点での〈露伴〉の肉声を選択して語られることがかなり多いということである。そしてそれに反比例して、語りの地の文は描写にほぼ徹底され、語り手が顔をのぞかせるような語り手の介入というものがごく少ないとも言えるのである。これらのことから読み手はあたかも語る時間と語られる時間が融化してしまっているような印象を受けるのである。 さて、以上の分析の上に立って、これが物語内容の現出にどのように作用しているかという事を考えねばなるまい。一番大きな問題は妙がこれらの語りの方法によってどのように読まれていくのかという問題である。
中禅寺の湯元より峠越して道に道に迷いし者盡く疲れ果て、（中略）歩み難く困りますに草鞋一足御譲り下さるまいかと云へば。それはお気の毒なこと（中略）然し私しのはき捨の草履にても宜しくば参らせませうと云ふは不思議や、なまめかしき女の聲、かかる山中に似合わしからず。されど此も猟師か何ぞの娘ならん（中略）できることなら一夜の宿頼まんと。誠に申し兼ねたれども小川まで二十町と承はりては疲れたる身の中々に歩み難く、痛所さへあれば憫然と思し召て一夜の宿りを許したまへ。それは思ひも寄らぬ事、女子ばかりなればと云ひながら板戸引き開け身体を半分出す女年は二十四五なるべし、後面に燈を負ひて後光さす天女の如く其色の皎さ其眼のぱっちりとしたる、其眉つきの長く柔和なる、其口元の小さく締まりたる、其髪の今日洗ひたる乎と覚えて結ひもせず後ろに投げ掛けて末の方を引き裂きたる白紙にて一寸纏めたる毛のふさふさとしてくねらざる美しさは人にあらず。（一）
これは〈露伴〉と妙が邂逅する場面である。お妙を認識したときの〈露伴〉の最初の認識は〈不思議や〉というものである。これまでのコンテキストから夢幻能という文学的伝統、あるいは幻想文学的なるものを嗅ぎとっている読み手ならばさして〈不思議〉でもないわけであるが、ここからの語りはこの〈不思議〉さを増幅させる方向で語られていることは間違いない。
まず、この場面での妙の描写が妙の現実的存在としての姿を揺るがしているとも言える。〈後光さす天女の如く〉といった言葉もそうだが、髷を結わない髪型などもどこか前近代的な雰囲気を持った女として妖しさを感じさせるのである。（「日本之文華」の第一号の挿し絵では源氏物語絵巻にあるような姿の妙が描かれていることを二瓶愛蔵氏が指摘している。）
この〈不思議〉さをさらに固定づけるものとして、また会話文の非対称性と心中語の巧妙な使い方が上げられよう。
甲斐々々しく洗ひくれんとするを。
「是は恐れ入り升、ナニ自分で濯ぎます。」
「イエく御遠慮なしに、サア御足をお伸しあそばせ」と問答する暇に指の股の泥まで綺麗に落ちて畳の上にあがり、丁寧に挨拶すれば、女莞爾と笑ひながら。
「山中なれば御馳走も出來ねど幸ひ小川村と同じ脈の温泉の背戸の方に湧き居れば、一風呂御這入りあって一日の疲勞をお休めなされ、サア此方へござれ御背中を流しませうか。」
（ハテ狐にでも誑さるゝではないか）と内々危ぶみ居る我手を取る様にして、
「湯殿へと申しても片庇廂、雨露を凌ぐばかりいぷせけれど湯は天然の靈泉まことに能く暖まります」といふ口上嘘らしくなく（底まで見え透く清き揚櫓、大事なかろう）と這入れば、無類の心持遙かに湯元より結構なり。晝間のつらかりしも忘れ悠々と揚って來るを待ち付て。女、
「御召憎うはござりませうが御着物の綻びを縫うてあげます間是を」と後より引かけて呉れるは、ぼてつかぬフラネルの浴衣に重ねたる黒出八丈の綿入れ、（女物なれば丈ありてユキ無く、兩手のぬつと出るは可笑けれど親切かたじけなし、餘程ふしぎな取り扱ひ、どうした運ならん）と怪みながら少し煙にまかれて。
「ハイハイ是はどうも恐縮。」
「御帯にも岩角の苔が付て居りますれば、可笑しくとも之を」と笑ひながら出すは緋縮緬のしごき。「ハイく」と帯にして、（是も大方籐蔓か知れぬ）と觀念し、座敷へ來て居爐裏の傍に坐る肩へ羽折り呉るゝは八反の鼠辨慶のねんねこ。
「湯覺をなされて若しお風邪でも召ては何處ぞのお方に濟みませぬ」と味なロきゝ、どんくと柴折くベ、自在にかけし鍋の沸き立つを取り下して、
「定めし御空腹でござんしたろう、サア御膳も出來ましたがお気の毒なは麦飯、暖い丈を取り柄に山家の不自由をお許しなされ、」と取り出す蝶足の膳、盛て呉るゝ山獨活の味噌汁、香気椀に溢る。禮云ひながら我は甘く食へば女も。
「妾も御一所に片付て仕まひましよか」と無造作に喰ふに膳なく、椀を爐縁に置んとして流石に馴れずやたゆたふを。
「此膳をお用ゐなされ」と突やれば。
「そんならおとり膳とやらに、オホヽ、御免なされ」と顔も赤めず、宵よりの所業一々合點の行かぬ事どものみなり。
引用が非常に長くなって恐縮だが、先ほどと同じように鉤括弧と丸がっこをつけ、改行を加えてみた。ここで分かることは登場人物の肉声を写し取る会話文体でありながら、妙の発話に比べて、〈露伴〉の発話が非常に少ないということである。これは、読み手は妙の言葉に耳を澄ます〈露伴〉の視点に立っているという事が多いという事にもなろう。それから先ほども述べたように、作中人物〈露伴〉の心中語の多用もある。
これらのことは、一夜の出来事すべてを知っている〈語り手〉ではなく、作中人物の〈露伴〉側から見た妙を現出させる効果があり、そのことは妙が徹底的に見られる・読まれるという位相に立っていることを意味する。なぜなら、〈露伴〉は妙が何者であるか分からず、様々に妙を規定しようと試みるからだ。〈おのれ妖怪か〉に始まり、〈ハテ狐にでも誑さるゝではないか〉などとといった会話中に挿入される露伴の心中語というものは、その点において機能している。またそれらの心中語はつねに〈不思議〉さを印象づけるものになっている。かくして妙は「謎」の存在として読み手の前に立ち現れてくるのだ。以降エンディングまでこうした「謎」は読者を読むことに誘惑して行くわけで、このことは『対髑髏』における語りの作用であると同時に重要なドラマツルギーなのである。
５
妙は非常にミステリアスな女性である。まず、〈かヽる山中〉に美女がいること自体、すでに〈不思議や〉といわれるほどの異常事態なのだが、すべてに行き届く世話の仕方、立ち振る舞いなどを見ると〈露伴〉＝読み手にはいよいよ奇怪な女に思えてくるのだ。そしてその奇怪さを解き明かすために〈露伴〉の提出したコードは〈さりとては何者ならん、世を捨てたる女か〉それとも〈世を捨てざる女か〉というものである。だが、そうした観点を与えられ妙を読んでいく読み手にはさらに妙が「謎」化していく仕掛けがある。〈露伴〉は妙に山中に住む〈仔細〉を尋ねる。
ホヽ中々の事、賤の女に何の由緒のありませう、唯妾しは妙と申す気軽者、去歳より此処に移りしばかり、おまへ様は。露伴と名乗る気軽者。扨は気軽と云はるゝか。如何にも。何の上の気軽。我は何とも知らず山に浮れ水に浮るゝだけの気軽、おまへ様は。浮世を厭ふだけの気軽。ハテ怪しからぬ、浮世を真誠に厭ひ玉ひなば御頭をもゴッソリと剃り丸め玉ひ、墨染の衣に御身をやつされ、朝は山路に花を採り夕は渓川に閼伽を汲て本尊に供ぜられ、看経念佛の勤めあるべきに、珠敷さへ持ち玉はざる計りか、昔しの人は美しき面に熱鐵當たるさへあるに、お前様は誰に見よとての黒髪、油こそ無れしなやかに、友仙の御下着、紅こそ見えね仇めかしく色作らせらるゝ事疑はし、世を疎み玉ふとは詐り、深く云ひ替せし殿御を恨むる筋の有るかなどにて、口舌の餘り強玉ふての山籠り、思はせぶりの初紅葉あさくちから濃ふなるといふ色手管か、是は失禮圖に乗て饒舌りました。アラ此人の口の憎さ、其様な浮たる事にはあらず、全く世をば避け厭ひて。マザくとした御戯談、さらば世を厭ふとは如何なる譯、と押返して問ば、要らぬ事尋ねて可惜夜の更るに御休みなされ、と身を起して戸棚より出すは綿まづしき痩せ蒲團かと思ひの外、緋椴子の蒲團、浅黄綸子の袍巻、紅羽二重の裏付て猟虎の襟、驚かるゝ賛澤。サア御寝なされと我を押やりて小屏風立まはすに、是非なく話しを中途にして （一）
ここで注意しなければならないのは〈気軽〉という言葉に対す妙のこだわりである。妙は自分のことを浮き世を厭うだけの気軽者と規定するのであるが、妙は最初、〈扨は気軽と云はるゝか〉というように、妙と自分を同等の範疇に押し込める〈露伴〉の言説に軽い驚きを隠さない。妙はあくまで自分と〈露伴〉を差異化しようとしている。その後の妙の様々な言説に現れるように妙はあくまで自らを特権化して語っていくのである。と同時に〈露伴〉も妙の言い分に驚いているわけで、浮き世を厭う人々の姿と妙との落差について語りはじめる。ここで〈露伴〉の言っていることは、一般的に考えれば全く正論であって、正論であると言うことが妙の立場を危うくさせたのかも知れない。〈露伴〉は表情を曇らせたであろう妙の反応を先取りして〈是は失禮圖に乗て饒舌りました〉と話を中断してしまうのだ。しかも、加えて〈露伴〉が疑問を呈すと妙は自分から話を求めたのにもかかわらず〈要らぬ事尋ねて可惜夜の更るに御休みなされ〉と〈是非なく話しを中途にして〉しまうのだ。
と、このように読んでくると、読み手の内部には何か隠蔽すべきものを抱込んでいるという妙像がはっきりしてくる。それは同時に誘惑的でもあるわけで、妙は謎の女として〈露伴〉や読み手にさらなる深入りを要求するのだ。これらの誘惑はセクシュアルな形で露顕してくる。妙は〈露伴〉に同衾をすすめ、〈露伴〉は妙と同衾し、セクシュアルな妄想を抱かざるを得ないのだ。
狼狽えに狼狽える露伴に対し、妙は〈むかし乳母があなたを抱いて寐かして進た時の様にあなたを緊乎と抱て妾の懐中で暖めて進ようばかりの親切〉と語る。ここの部分は〈露伴〉が〈もし虚誕ならずば〉という条件付きで、〈此女は女の男めきたるならで神らしき方に近づきたる方外の女なり〉という根拠になっている。つまり、妙は色恋といった俗情を超越した女であると〈露伴〉は読みとったのである。
ただ、それでも、〈露伴〉は彼女をそうさせた理由というものが分からない。〈露伴〉は徹底的にその因果を求めようとする。そして、この直後に、
縁外の縁に引かれて或いは泣き或いは笑いし夫も昔の跡、懺悔は恋の終りと悟りて今何をか匿し申すべき。（二）（傍点は原文のまま。「日本之文華」「葉末集」版のみ付いていた）
というように過去の〈恋〉がその因果だったことがあかされるのである。妙はこのとき初めて過去の〈恋〉を語る相手を見いだし〈懺悔〉することでカタルシスを得ようとしている。とすれば〈露伴〉が妙を超越的と見たのは誤りで、今まで隠蔽してきた〈恋〉を語ることで、恋の迷いを断ち切る可能性が妙に見えたばかりだとしなければならず、この時点での妙は決して超越などしてはいない。だからこそ三の冒頭で初めて妙は〈嬉し氣〉なのである。
それはともかくも、読み手はこれまで『対髑髏』において重大なドラマツルギーとなっていた妙の「謎」がようやくわかる期待を胸にすることになるのだ。
６
いささか前節で論じたことは複雑ではあるが、聞き手によって、主人公の情念や意識の流れを引き出してくるというのは、夢幻能の切り開いた独自の境地であり、そこでも骨格としてそういった夢幻能形式の伝統を垣間見せているということができる。そしていよいよ中心となるシテの物語になる。
この物語で妙が懺悔したのは思いを寄せられる若殿に対し、母の遺書（妙が癩病の家系であると言うこと。癩は明治時代まで不治の遺伝病とされていた。「天刑病」ともいわれる。登尾氏の研究によれば癩の家系に生まれた女は一度男に肌を許せばたちまち発病して肉体が崩れるという俗信さえあったらしい。）によって冷たい態度をとらなければならない、しかしその訳は言えず、若殿を焦がれ死にさせてしまう。そのために妙は狂ってしまったという話である。注意しておきたいのは妙の物語は、妙がどこか前近代的なイメージを持って登場したのと同様に中古的なイメージを膨らませられるものである。なぜなら妙と若殿は最後、若殿が亡くなる直前までお互いに一度も面会したことが無い。また若殿からの愛情表現は和歌によってなされている。舞台は明治十年代後半の東京であり、若殿は海外留学までしているのも考えあわせればこれはいささか奇異なことだと言わざるを得ない。だが、そのような事象はすべて捨象され、妙も若殿も類型的人物として、確実に妙の話はそういった中古的「物語」の枠に押し込められているのだ。三のタイトルにある、〈能々たヾしてみれば世間に多いこと〉というのはそんな事を暗示しているのかも知れない。
ところで、ここでも実は新たな「謎」が生まれてきている。〈行水に散り浮く花の青貝摺せし黒塗りの小箱の中の遺書〉というのがそれである。露伴はそのことを追求するが妙は〈私の口から申すもつらし〉と明答をさける。そして、物語が終わっても〈露伴〉はその遺書の内容をくみ取ることができない。妙は若殿には伝えられなかったことを、露伴に伝えることによってのみ、救われることができると信じた。にもかかわらず、そのメッセージは〈露伴〉には伝わらなかったといってよい。妙が遺書の内容をぎりぎりまで暗示させても、〈露伴〉は無理解を示す。だから〈其時の苦しさ推量したまへ、と沈みたる調子〉になったとしても無理はない。
だが妙の内部においては、〈露伴〉の無理解性を受容することで、自らの〈恋〉に対する妄執は浄化されたと考えてよい。
急に語気を変て、ホヽホヽおもしろからぬ長話最早やめに致しませう、言ふもうるさく語るも尽じ、恋と恨みは隣り同志、これまでくこれまでなりや繰り言も（中略）仮初めながらの縁も是まで、君は片科川に浮く花、香は急流に伴って十里を飛ぶ速やかに、我は其川の岸にたつ柳、影は水底に沈んで一歩を動ぎ難し、逢ての喜び別離のつらさ戯けし恋の後朝ばかりにはあらず（三）
縁は皆仮初めであり、自分の〈恋〉も〈露伴〉との出会いもの縁の一つに過ぎないと了解し、妙は消えて行くのであろう。ここではいささかの暗さもないわけで、妙の物語は非常な綺譚として幕を閉じたのである。
７
『対髑髏』が夢幻能形式に骨格をかりたものだとすれば、予定調和として妙は幻であり、妙の消滅により終結を向かえるはずだ。
時しもあれ朝日紅々とさし登りて家も人も雲霧と消え、枯れ残りたる去歳の萱薄の中に雪沓の紐續ぎかけしまヽ我たヾ一人にして足下に白髑髏一つ。さても昨夜は法外の小説を野宿の伽として面白かりし、例令言葉は無くとも（三）
ここにあるように、実際ここまでは夢幻能形式の仕掛け通りである。引用文中〈法外の小説〉となっているところは初出では〈法外の想像〉となっていた。〈想像〉という言葉を重く見れば、お妙の話というのはワキである〈露伴〉の「夢幻」であったということもまたはっきりするはずである。
だが対髑髏の問題は、実は夢幻能の骨格をかりながらも、それを裏切る細部があると言うこともまた事実なのである。そのことはまた語りの問題に戻らなければならないのだが、一人称で語られると言うこととも無縁ではない。夢幻能の特色の一つとしてシテ中心主義というのがある。ワキはシテの演技を紡ぎ出す役割に徹しなければならないのだ。
対髑髏における〈露伴〉はワキの役割を担いながらも、それに徹しているとはいえない。つまりシテ中心主義を侵犯しているのだ。登場において〈露伴〉と名乗りまたそのペンネームの由来を語るなどというのは、野山嘉正氏がいうようにいささか異様な感じがするし、売れっ子作家になりつつあった幸田露伴とリンクして〈露伴〉の主体性というのを著しく増幅させてしまっている。読者は〈露伴〉像というものさえ結べてしまうだけの言葉の蓄積もある。簡単に言えば多少禅などを学び、修行さえしたこともある。しかしながら、負けん気の強い江戸っ子的性格を持つ等々である。
何よりも露伴が妙と同衾を妄想する場面が〈露伴〉自身を前景化させている。
仔細なく一夜を明さんとするとも、背中合せでは肩寒し、山里の夜風透間洩りて一しほ寒ければと、我肩に夜着品よく着せ掛て、此方お向なされそれでは兩人の間に風が入りてと云はれては愈々むづかし。あの軟やかなる髪の毛我類を撫でて、花のやうな顔我鼻の先にありてば尚々むづかし。玉の腕何處にか置きなん乳首何處にか去らん、扱は愈々大事なり、女猫抱て寐しと同じ心にて我眠らるべきか。叱。若しや夜着の内人の見ぬ所、身動きに衣引まぐれて肉置程良き女の足先腿後など我毛臑に觸らば其こそ。喝。生死一機に迫る一大事。素より道力堅固ならず戒行常に破れ居る凡夫の我、あさましき心は起さゞるにもせよ長閑なる夢は結び難し。（二）
幸田露伴は吉岡書店主に〈当局者の認定を持って発売禁止など蒙り候節は、甚だご迷惑との御懸念を御座候〉と述べていることを二瓶愛蔵氏が指摘しているが、発売禁止をおそれるような件はこの部分にしか考えられず、当時において、この描写がかなりきわどい性的描写だったことが伺えよう。そしてこの衝撃力により「色道修行」（二瓶愛蔵氏）の主人公たる〈露伴〉というものさえ浮き上がってくるのである。
さらに、これまで夢幻能形式に関することと複線的に論じてきた、妙の「謎」、それを引き出す〈露伴〉という構図もシテ中心主義侵犯と無縁ではない。〈露伴〉は「謎」に対しての疑問＝〈露伴〉の内面を疑うことによって近代的リアリティを確立させようとしているかのようにさえ思われるほど執拗に語りすぎているのである。これだけを考えれば、『対髑髏』はミステリー小説的でもあるのだ。塩谷賛氏が『対髑髏』は幸田露伴の書いた最初のミステリーだと指摘したのはおそらく正鵠を得ている。それがすなわち『対髑髏』の優れたドラマツルギーになっているわけでもあるのだ。が、同時に『対髑髏』が夢幻能形式に礎をおいて、その文学的伝統の上に物語を読ませようと言う力もやはり厳然としてあるわけで、それが二節に引用した柳田泉氏のように〈全編全く神韻縹渺たる抒情詩〉と評されるゆえんでもある。ただし、謎を追求する主体が全面にでてくることは、そうした夢幻能形式の安定性をいくらかは揺るがすことになりはしないか。
その矛盾は必然的にエンディングの部分に現れる。なぜならミステリー小説といえる部分がまだ完結していないからだ。小川村に下っても妙の「謎」が未だわからない〈露伴〉は探偵さながら、宿の亭主に〈女の様子知るだけ詳しく語れ〉と問いただすのである。
其時お妙は長江を渡る風軽く雲を吹て、おぼろにかすむ春の夜の月大空に漂よふ様に、満面の神彩生々と然も柔しく、藍田を罩むる霞あたゝかに草を蒸して、ほやりくと光り和らぐ玉に陽炎立つ如く、両眼の流光ちらくと且つ嬉し気に、聞て玉はれ露伴様（三の冒頭部）
其女の様子知るだけ詳しく語れと逼れば老父苦い顔して我をヂロく見ながら、年は大凡二十七八、何處の者とも分らず、色目も見えぬほど汚れ垢付たる襤褸を縫ひ破れ笠を負ひ掛け足には履物もなく竹の杖によわくとすがり、話すさへ忌はしきありさま總身の色薄黒赤く、處々に紫色がゝりて怪しく光りあり、手足の指生姜の根のやうに屈みて筋もなきまで膨れ、殊更左の足の指は僅に三本だけ残り真一本の太さ常の人の二本ぶりありて其績きむつくりと甲までふくらみ、右の足は栂指の失し痕微かに見え、右の手の小指骨もなき如く柔らかそうに縮みながら水を持て気味あしく大きなる蠶のやうなり、左の手は指あらかた落ちて拳頭づんぐりと丸く、首は愈々恐ろしく銅の獅子牛は熔ろけたるに似て、肩の毛盡く脱け額一體に凸く張り出して處々凹みたる穴あり、其穴の所の色は褪めたる紫の上に溝泥を薄くなすり付たるよりまだく汚なく、黄色を帯びて鼠色に牡蠣の腐りて流るヽ如き濃汁ヂクくと溢れ（三）
三の冒頭の美しい幻想的な描写と読み比べていただきたいのだが、ここでは、明治文学史上まれにみられるといってよいほど、醜悪で、リアリスティックな癩女の描写が繰り広げられるのである。三に入り、より中古的な、幻想的な物語言説に馴化され、しかも、妙を安定した非現実的存在として読んできた読み手は、読むに耐えないと思うほど現実的な妙に逆襲されることになる。
つまり『対髑髏』は夢幻能形式という「物語」の伝統を骨格として用意しながらも、内部に抱え込む「近代小説」的なるもの＝人情・現実の模写＝の噴出によって、最大限の衝撃力を与えるという仕掛けをもっているテクストなのだ。ここで近代小説的というのはもちろん坪内逍遙が『小説神髄』で説く〈小説の主脳は人情なり、世帯風俗これに次ぐ〉ということや〈ただ傍観してありのまヽに模写する〉ということと別ではない。だがやはり重要なのは『対髑髏』が〈ローマンス〉の形式とも言える夢幻能の形式を礎にして、〈ノベル〉的要素をそこへぶつけたことなのである。
そしてこれらのことを象徴的に示すのが事実として残されているタイトルの変更なのかも知れない。「縁外縁」と「対髑髏」という題名にどんな意味があるのかということは登尾氏が〈『縁外縁』は作品の主人公お妙の側に立った題名であり、『対髑髏』は〈我〉の側に立った題名である〉と指摘している見解は明快であり、首肯できる。そしてまたこのことは『縁外縁』というのがお妙をシテとして夢幻能的な「物語」として読んだときに説得力を持つ題名であり、『対髑髏』というのが〈露伴〉を主体として髑髏＝妙の謎を解く「小説」として読むときに同様にうなずける題名である、というようにも言い換えられるのではないか。それほどまでにこのテクストは妙と露伴を主人公として拮抗させてしまっている。ただし、その拮抗は実に微妙なバランスをとっており、だからこそ、『縁外縁』／『対髑髏』は魅力的なのではないか。『対髑髏』は伝統的文学のジャンルと新しい文学のジャンルが渦巻く近代文学の展開期に幸田露伴という個性を媒介にして両者が反応した、実に求心的にして奇妙なテクストだと言うこともできるのである。
【参考文献】
柳田泉『幸田露伴』（Ｓ十七・二）
塩谷賛「ミステリーと露伴」
（『露伴と遊び』Ｓ四十七・七）
登尾豊「『対髑髏』論」（「文学」Ｓ五十一・八）
塩谷賛『幸田露伴』（上）（中公文庫 Ｓ五十二・二）
二瓶愛蔵『若き日の露伴』（Ｓ五十三・十）
小田幸子「夢幻能」（平凡社『世界大百科事典』）